自分の事を見つめなおして

誰でも意識せずに過ごしている生活の中に、たまに事件が起きます。

その事件は、少なくとも自分にとっては、それまでの考え方が急激に変わったり、今までの価値観とは逆転してしまう位の変化をもたらすこともあります。

 

若くても、それなりに年齢を重ねていても、男も女も関係なく、生きていたら大なり小なり皆にあるのではないかと思います。

 

私はこのブログを自分の備忘録として書くにあたって、これまでの自分を見つめなおすことも必要なのではないかと思いました。

 

今回は、自分を見つめなおすためのものなので、特別な情報は何もありません。

興味ない方はご無理なさらずに、ここまでで、またの機会をお願いします。

 

それではまず、私には今までどんな事件が起きたのだろうかと考えてみて、それぞれの事件で自分はどのように変わってきたのだろうかと考えてみました。

 

目次

私の人生で起きた事件とその背景を思い出す

 

高校時代の父の死

私は父と母と5歳上の姉と私の4人家族で育ちました。生まれてすぐから人見知りがとてもひどく家族以外にはなかなか心を開くことが出来なかったそうです。とても甘っちょろい子供で、かなりのお父さんっ子としてすくすく育ちました。父はとても子煩悩な人だったので、いつも面白可笑しくいろいろな事を教えてくれていたように思います。

父を中心に笑い声の絶えない家族でした。

 

そんな私には、中学三年生での父の病気と高校1年生での父の死は、ショッキングすぎる事件でした。

 

父は肺がんで亡くなったのですが、肺を半分以上の切除手術をし、何も知らない私はそれでも元気になってくれるものと信じていました。なので父が亡くなった後2年から3年くらいの記憶があまり残っていません。

 

しばらくはどうしてせめて私が成人するまで父は生きていてくれなかったのかと心の父に問いかけていた気がします。そんな事を思われても、きっと天国から父もとってもとっても困っていた事でしょう。

 

記憶の残らない高校生活と自分を考え直す浪人生活

どんな高校生活を送っていたのか、正直あまり記憶になく、当時の写真は顔つきに笑顔も輝きもありません。でも普通に友達と話し、友達と毎日それなりの日々を過ごしていたようです。

 

一般的に高校時代は、いろいろな経験をして、いろいろなことを考え心も身体もとても成長できる時ではないかと思います。

しかし、私にはその間の成長があまりなかったのではないかと思います。おそらく表面上はお友達だったりしても、私が心を閉ざしてしまっていて、人と信頼関係などを築くことが出来なくなっていた時期です。私自身が自分のことを話すことが出来なくなっていたように思います。もともと人見知りで自分の事を話すことは苦手なので、それでも全然平気な顔して生活していたように思います。

 

学校の勉強も出来なくなって、将来を考えることも出来なくなっていましたが、それでも時間は過ぎていくし、学校を卒業もします。時の流れに逆らえずセンター試験を受け、受験をしましたが、どこも行くことが出来ませんでした。

 

そして、自動的に浪人することとなったのです。

姉がその背中を押してくれたのかも知れません。

 

実家から出て寮に入るように言われました。

 

寮生活は一人になる時間も多く、どうするのがいいのか考えることも増え少しづつ心は開いて行けたように思います。同時に心の中の父に話しかけていた私は、夜空の父に話しかけるようになったように思います。そして心を開くのに時間がかかった私は、学力はそんなに上がらなかったのではないかと思います。

 

将来に夢を見るまでには気持ちも成長しなかったのかも知れません。

 

色々考え悩んだ末に、結局は自宅から頑張れば通える距離の短大に進学することにしました。

 

普通に大学に行くものかと思っていたので、そんなに簡単に行けるものでもなく、学力も経済力も、精神力も必要なのだと思いました。

初めて社会を知る短大生活と就職

短大生活はあっという間に過ぎていきます。初めてが多すぎて、目が回るように忙しかったです。

アルバイトも初めてしました。色々な検定試験を受けたりもしました。色々なセミナーに参加をしたり、初めて笑顔や人に接する接客応対の勉強を知りました。

実は初めてパソコンに出会ったのも短大に入学してからです。

本当にいろいろなことが初めてで大切で、充実した一年間を過ごし、すぐに就職活動に入りました。

 

私たちの時代は短大生はかなりの就職難の時代で、どうやって就職試験を受けるのか初めてで知らない事ばかりでした。手探りで生きていくこともおそらく初めてでした。

 

そして将来を考えることがようやく出来るようになっていました。

 

私は、「笑顔を届けることが出来る仕事」を選びたいと思うようになりました。

 

「笑顔の連鎖」を発信できる人になりたいと思っていました。そして百貨店を就職先に選びました。

 

百貨店での教えの中で

自分が選んだ笑顔と人との会話での世界。私にとっては一番出来なかったことを仕事として選び、その楽しさを知っていきました。

 

物にもそんなに興味がなかった私が、全国の百貨店巡りを趣味にして、日々研究をする中で、販売の面白さ、仕入れの面白さ、接客の面白さ、陳列の面白さを自分なりに感じていきました。

 

人の心理を考えるようになりました。

腎臓の病気

ずっと楽しく仕事が出来ると思っていたころ、体調を崩しやすいのが腎臓のせいだと知りました。

治療を薦められ、一年間の治療期間に入りました。大変な治療でも笑顔で楽しむことを心がけました。「笑顔」が一番だと思っていたので、常に「笑顔」で治療を受けました。

それと同時に、世の中みんな一緒ではなく、それぞれ違う体で、置かれている環境や考え方があり、色んな人で集団が出来ているということを考えるようになりました。

 

父親のいた頃の私を知る友達と話すことを怖がらなくなり、過去にも目を向けられるようになりました。自分の変化を認めてあげられるようになりました。

 

そして自分の環境をすべて受け入れようと、同時に育ててくれた父親と支えてくれた母に感謝をしようと思えるようになりました。

 

結婚・出産

自分を受け入れられるようになったころ、結婚を考えました。

30代も半ばだったので、多少考えるのも遅かったのかも知れませんが、結婚をするのかしないのか、出来るのか出来ないのかその程度の考えだったけれど、それでも初めて自分の家族について考えるようになりました。

そして、夫に出会い結婚してみようと思うようになり、入籍すると一年後に娘が生まれました。

 

とても意外でした。そんなにすぐに娘が出来るとは思ってなかったからです。

 

自分に対して多くの事を望んできたけれど、子供を出産した時、親が望むのは命があるだけで充分贅沢なのだと感じました。高齢であったことや、腎臓のこともあり、妊娠期間中に注意することもたくさんありました。

結局早産でしたが、娘に命があって生まれてくれたことに感謝しました。

 

それでも、次々に欲が出てきます。目が見えますように。耳が聞こえますように。

手足が自由に使えますように。出来れば器用に使えますように。。。。

どんどん欲が出てくる自分にびっくりするとともに、自分も自分に対してそうやっていたのだろうかと考えるようになりました。

 

人間は欲深いものだと感じるようになりました。

 

そして欲はどんどん増えていきました。

 

癌になり、自分の命を考える

出産から6年後、直腸がんになりました。結婚から7年後でした。

手術後に念のための抗がん剤治療もしたけれど、その後1年半後に肺に複数の転移が見つかりました。

 

抗がん剤治療を経て、肺炎になり、左右の肺の一部を切除する手術をしましたが、取り切れず、放射線治療をしました。

 

父親の事を思うようになりました。

あの時の父親を思うようになりました。それと同時に神に仏に地球に宇宙に祈るようになりました。

 

現実を見ている部分と、未知の世界に願う気持ちと今は二人の私が心にいます。

 

そして今に至るのですが、今はいつも隣で支えてくれる夫と金婚式を迎えるまで、この命を笑顔でいっぱいに燃やし続けるつもりです。娘の変化を見守りながら・・・大切にします。